先日、行われました時代祭に参加しました。
今回いただいた役名は、維新志士列「錦小路 頼徳」です。
時代祭の前週に、平安神宮で行われる宣状授与祭にて錦小路 頼徳に扮することが分かりましたが
どんな方であったのかを存じ上げていませんでしたので、インターネットで調べてみると、
下記※のように活躍された方です。
時代祭では、七卿落ちの一人で都から逃れる様をあらわしています。
当日は、御所 堺町御門からスタートしまして、平安神宮までの間 約2時間ほど歩きました。
京都の大通り(烏丸通、御池通、三条通等)をゆっくり歩けることは普段ありません。天気も快晴で
気持ちの良いものでした。そして、維新志士列の坂本竜馬や桂小五郎など著名な役には沿道から声援がかかったり、写真撮られたりで役得という感じでした。
私の服装は着物ようなもので動きやすく軽装でしたが、それでもわらじのため道中の後半には足が痛くなってきました。甲冑や鎧を着られた方は、動きにくく衣装が重く、大汗かいて大変そうでした。
また、機会がありましたら、参加してみたいです。
株式会社 青葉 中積 一
※錦小路 頼徳(にしきのこうじ よりのり、天保6年4月24日(1835年5月21日)-元治元年4月27日(1864年6月1日))は、幕末の尊皇攘夷派公家。字は一貫。唐橋在久の子として生まれる。のち、錦小路頼易の養嗣子となる。1851年(嘉永4年)に叙爵を受け、2年後に大和権介に任じられる。1858年(安政5年)の廷臣八十八卿列参事件に参加し、以後は尊皇攘夷派として活躍する。1862年(文久2年)、従四位上右馬頭。同年、公武合体派の久我建通の弾劾に加担、翌年2月、壬生基修とともに庶政刷新と攘夷貫徹を求める建言を提出して国事寄人に任じられ、孝明天皇の攘夷祈願の為の石清水八幡宮行幸に随従した。同年の八月十八日の政変によって失脚し、三条実美、壬生基修、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、澤宣嘉とともに長州藩に落ち延びる(七卿落ち)。これによって官位剥奪の処分を受ける。後に桑原頼太郎の変名を用いて長州攘夷派と行動をともにするが、赤間関の砲台視察中に病に倒れ、同地で30歳の生涯を閉じた[1]。没後、王政復古時に官位を復され、1870年(明治3年)に正四位を贈られた。(ウィキペディア)